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遊佐町は山形県庄内の最北端に位置し、西に日本海、東に鳥海山を臨む自然に恵まれた農業の町です。日照時間が長く、昼夜の気温差が大きく、気象条件に恵まれ、米どころといわれる庄内地方の中でも良質の米を産する地域です。
出逢い
生活クラブ生協と遊佐町農協(現在、庄内みどり農協)との出逢いは1968年。
当日の米の流通は 政府米一本の時代で、政府が卸→小売へと流す米の価格は々等級のものはどこの産地のどんな品種であっても同一でした。
米屋さんは、こうして卸されてくる米を政府の配給計画に従ってブレンドし、消費者に配給米として売っていました。
でも、配給米は消費者にはあまり評判がよいというものではありませんでした。
「おいしいお米が食べた」という声が“格上げ混米”を横行させていったのです。一方で銘柄品種100%といいながら 安い政府米を混ぜて売られたりと、米は消費者不在で流通していたのです。
そんな中、生活クラブは遊佐町農協と出逢い、もっとも大切な生活物資である主食の米に、消費者の主権を確立するためには、自分たち自身で流通に参画し、素性の確かな米を直接生産者と手を結んで食べていこうとしたのです。1971年のことでした。
※格上げ混米の話−米は生産者から政府が買い上げる際、品種・等級別の検査を厳しく行い、卸に売却されるまでは素性が明確に管理されています。しかし、その米がいったん卸業者や小売店に流れると、等級をあげる格上げ混米操作が行なわれ、産地も銘柄も等級も消費者には全くわからないで販売されてしまいます。米屋の混米操作は、もともとは米のうまみを引き出すためのものであり、精米技術とともに米屋のノウハウといえるものでした。地元消費者の好みをつかみ、一方で産地の米の特長をつかんで混米するのが腕の見せ所だったのですが、いつの間にか儲けの手段にすり替えられてしまったのです。政府米のうち、銘柄米だけを取り出して自由米として高く売り、残った米だけを配給米にしたことが多く行なわれ、銘柄米は高くておいしい・配給米は安くてまずい、という先入観を生み出す元になりました。今では精米はほぼ卸直営の精米工場で行なわれ、小売店では袋詰めされて届く米を売るだけの販売形態になってきています。
この提携に至るもう一つの背景には、1971年、政府が米の生産制限をさらに強化し、大幅減反政策を打ち出したことがあります。これまで政府は出来た米の全量を「引き取り」していたのに対し、あらかじめ生産者に政府に売りたい米の数量を予約させるという「買い入れ制度」に変更したのです。つまり、予約以上の米が生産された場合は“余り米”として農協が処理しなければならなくなりました。 この年、遊佐町農協での“余り米”は3000俵。それを生活クラブが全量引き取るという、日本の米の流通のあり方に大きな衝撃を与えた生産者と消費者との「米の産直」が始まったのです。
今だから話せるエピソード
当時の生活クラブは米の小売免許を持っておらず、農協内では食管法に定職することへの議論が沸き起こったそうです。結局、遊佐町農協蕨岡地区の農事法人が生活クラブの組合員に直接売るという形をとりましたが、「いざとなったら誰が捕まる役になるのか」まで申し合わせるほどの農協の覚悟からスタートした産直の取組みでした。
生活クラブ生協と遊佐町農協という2つの協同組合による組合間提携をめざして3000俵が生活クラブ組合員に出荷されました。その2年後から遊佐と生活クラブの交流が生まれ、提携関係がさらに育っていったのです。
現在まで、毎年夏に、庄内交流会が開催されています。
生活クラブ生協が“自分たちの食糧基地”と位置づけている山形県庄内地方の生産者と、生活クラブの組合員が交流し、提携の絆を確かめ、深め合う企画です。
特に意義深かったのは、第15回庄内交流会(1988年)で、ふたつの協同組合の共同の力で、新しい米をつくるという、単なる提携からより高次の新しい段階へのステップアップが確認されました。「新しい米=共同開発米」で「ポスト・ササ」です。
共同開発米
遊佐町はササニシキの里であり、当時作付けされている米のほぼ100%がササニシキでした。確かに、庄内のササニシキは新潟のコシヒカリ、宮城のササニシキと並ぶ超優良銘柄であり、おいしい米として有名でした。しかし、ひとつの地域で作られる米が100%ササニシキというのは、米の品種の寿命や農業の多様性や土地利用のあり方、労働力の配分(同時期に一斉に田植えや稲刈りをしなければならない) からみても不自然であり、ササニシキがダメになった時のことを考えると提携している消費者としては不安なことでもありました。
生活クラブは長い提携関係の間に幾度となく「ササニシキに代わる新しい品種の導入」を提案し、栽培実験と試食が試みられてきたわけです。
こうしていよいよ 組合員レベルでの実践段階に入ったのが1988年でした。
実験の結果、選ばれた品種は「ゆざ88」「鳥海コガネ」とネーミングされました。“ササ・コシ信仰”に惑わされず、米をめぐる国の政策や流通業界の問題を表面化させ、その問題を共同購入と手段で解決していこうというチャレンジとしての共同開発米事業が始まったのです。 それ以降現在まで、品種や土づくり、減農薬、無農薬と試行錯誤を繰り返しながらの生産を、私たち組合員は登録して食べることによって支え、98年からはOCRでも注文できる“遊YOU米”(95年に公募でつけられた共同開発米の愛称)として多くの組合員に指示される米に成長しました。
「消費者の方を向いている生産者」と「生産者の方を向いている消費者」がいえ初めて実現した遊YOU米。生産者と消費者が共同開発した米は、そう手に入るものではありません。私たち組合員の食べる力を結集し、日本の米を守り育てていきましょう。
遊佐町からこんにちは
=お米は水と生産者が命=
遊佐の声mは「鳥海山1番地」から流れてくる水で作られています。
遊佐町大字吹浦字鳥海山1番地。
れっきとした住所。それは、鳥海山の頂上です。
遊佐の水は全て鳥海山から流れ、日本海に注いでいます。
自然からその天然水をいただいて、私たちはコメ作りをしています。
=オコメの価値は目に見えにくい=
米作りは私たち農家の力だけではできません。
おいしい水はもちろん、太陽と風と土と、その中の虫や微生物が
ゆっくりと時間をかけて一粒の米に命を与えるのです。
一粒の米には、遊佐の自然が凝縮されています。
私たちはイネの様子を「稲姿」と言っています。
「今年は稲姿がいいな」というように使います。
「姿」という言葉は一般的に人の佇まいを表すものです。
私たちにとって、稲は人と同じなのです。
そんな精神や自然環境が遊佐の農業を支えています。
この自然環境を守るため、私たちは今年さらに減科学肥料栽培に取組み、
科学肥料を慣行栽培の半分までに減らしました。
環境にやさしい米作りはきっとみなさんにも優しいお米になるはずです。
最後に、皆さんの日々の登録活動に感謝いたします。ありがとうございます。
昨年の台風被害の折の共同開発米基金へのカンパ活動もありがとうございました。
遊佐共同開発米部会 副部会長 菅原 英児 氏
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